第5回 戦後日本の価値観の変遷
本
吉本隆明の思想は、あらゆる共同幻想からの自立。想像上の秩序だな。魂、神、国家。
20世紀は共同幻想の肥大によって個人が押しつぶされた時代だった。前半は 全体主義 の台頭と大量死の時代だった。 これらのイデオロギーは国家の力を肥大化させ、個人の思考を停止させた。
イデオロギーによって思考を停止し世界を二分してしまった人間たちが何をするかは明白だ。
20世紀とは情報技術により踊らされた人間たちが共同幻想を肥大させ、危うく自らを滅ぼしかけた時代だった。
だから、吉本はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。
なぜそのような思想に至ったか?
戦中派の世代
総力戦のもと、最大の動員対象とされていた時期
幼少期は皇国教育が激化し、中東・高等教育をまともに受けられなかった
最も多感な時期を戦争の中で過ごした
原体験は敗戦の日
敗戦の日を境に、スイッチが切り替わったように、大人たちが戦後民主主義 に変貌していった 軍国主義を素朴に信じてそのままの延長で大人になろうとしていた青年は、めちゃくちゃな衝撃を受けた
これを考察して、考え方が逆転した現象を説明するためには、結局何かにすがらないと生きていけない人々は、そのすがる対象がなんであってもいいんだ、ということがわかった
であれば、それら全ての共同幻想から自立することでしか、解放されない、と思い至った
人間が世界を認識するために使用する三つの幻想
自己幻想
自分に対するイメージ、自己像
対幻想
1:1 の関係において、あなたと私はこのような関係なのだと信じる幻想
共同幻想
集団が共有する目に見えない存在、イデオロギーや法律などもそれ
想像上の秩序だね
SNSにおいても同じ構造を見て取れる
吉本の思想からみた戦後から今までの変遷
吉本の思想は、学生運動に参加する若者が敗北を正当化する論理を与え、スーツにネクタイで企業戦士になるための手助けをした 1968年の全共闘運動を極相に、国内でも学生反乱は終わり始めた その時に、学生たちをイデオロギーベースの思考から解放する役割を果たした
それは共同幻想だし、そこから解放されることが、本質的な人間の解放(幸せ)である、と言った
共同幻想は対幻想の性愛と友愛を、それぞれ国民と国家、国民同士、に割り当てることで全体としてそれになる
この操作をになったのが、昔は宗教で今はイデオロギー
対幻想にアイデンティティをおくことで、共同幻想からの自立を唱えた
マルクス主義や戦後民主主義といった当時の先進的な思想による革命にアイデンティティをおき社会改革を志すよりも、ささやかな家庭を築き守ることこそが本質的な人間の解放につながる、という論理を与えた しかし、吉本のこの思想が今度は、職場や団体などの共同体に人々を埋没させ、歯車として思考を停止させていく結果を招いた
それが高度経済成長を牽引したが、その後の失わせた30年をもたらした 対幻想にアイデンティティを置くことで、自分は家庭を守るから職場では思考停止して歯車になるのだ、という謎のヒロイズムを共有してた
そして、この対幻想への依存は、性差別による尊厳の獲得だった
社会的な自己実現は事実上放棄して、その代わりに妻とその子を守ることにアイデンティティを見出す そして、そのために守られるべき村z内であり続けるために妻の自立は認めない
そのようにして、彼らは「妻子を守る」ことを免罪符にして、会社組織における思考停止を自己正当化していった
彼らが批判していた、執行部の命令通りに虐殺に手を染める党員と、同じ
こうした組織ではトップダウンのイデオロギーからは解放されたが、ボトムアップの空気と同調圧力に埋没していった
ヒロイズムを共有している男性は、自己実現に対するルサンチマンも抱えていたのだろう、同調圧力が発生していた それは妻子のコミュニティ、学校などに関しても同じだった。人並みの、普通の価値観が正当とされ、同調圧力が働いた
吉本の戦後の対幻想による改革は、2つの理由で失敗に終わった
自立は、性差別による擬似的なごっこであった
自立ごっこを建前に社会での本音としてこれまで以上に強く共同幻想に埋没していった
これは結局思考停止していたよね、という話だと思う
吉本は、分人というものを考慮できてなかったのだ
サラリーマンは仕事と家庭で人格を分けていた
丸山の思想に対する批判から考察してみる
丸山 眞男は、主体的に市民として自立することを訴えた 日本軍のボトムアップの空気による意思決定
コミュニティにおける暗黙の了解として、全員の無責任の集合体として、意思決定された
責任の所在を曖昧化しつつも強い実行力を伴わせるために天皇という権威を利用していた
これに対して、戦後民主主義というイデオロギーによって、封建的で思考を停止した大衆ではなく、近代的な市民としての自立を訴えた 吉本の丸山に対する批判
戦後民主主義自体、核の傘の庇護に依存した一国平和主義以上のものはなかった、という批判はあるが、吉本はそもそもイデオロギーの移転をしても意味がない、というそこの対立のそもそもを批判した。 日本だけが守られていればそれで良い、それ以外には干渉しない
つまり、イデオロギーに埋没すること自体が、人を思考停止に陥れる、と主張した
そのためには、「大衆の現像」をその思想の前提にするべきだと言った イデオロギーはデモ帯には響いても、デモに乗っかって出店を出すアンパン屋には響かない つまり、このアンパン屋てきなリアリティに人間が立脚することで、自立を促せる、とした
吉本は丸山の批判を新しい形で元に戻した
しかし、結局この吉本のいう大衆の原像というのが、そもそも丸山が批判した無責任の体系の温床である、ということを過小評価していた
対幻想に依存することで、結局全体が見れなくなる
この大衆の原像を強化しすぎることで、結局全員が無責任になる可能性がある、ということ。
どういうことかというと、
アンパンではなく、タピオカ屋を出して売れまくった若者集団がいたら、それを村八分にするという非道的な行いをする可能性がある
対幻想は全くそれに対抗することはできず、結局妻子を守るための職業集団のコミュニティに埋没している状態では、ボトムアップの共同幻想からは逃れられないのだ
消費という自己幻想を用いた自立
結果的に対幻想を用いた自立はなしえなかった
それに対して次は、1980年代(政治の季節が決定的に相対化された頃)から、吉本は消費社会の到来を見越して、自己幻想を用いた自立を促すようになる 1984年にはコムデギャルソンの服でananにでたらしい
https://scrapbox.io/files/64983c6d9964e30021cc685d.png
学生運動などイデオロギーが支配した時代では、個が失われていた、そしてそれを対幻想、主には妻子に対するヒーローという形で個を作り出そうとした。しかしこれは、イデオロギーから、妻子に依存先が変わっただけだった そして、高度経済成長によって、必需品以外を購入する余裕が出てきたことで、人々が初めて消費によって自己表現をするという贅沢をできるようになった
お金がある程度あれば、ものを買って、それによって自由に自己を表現できるようになったわけだ
しかし、この消費による自己表現は成長によって当たり前になった
当たり前になったことで特別な意味はなくなり、家族や職場から人間を自立させる能力はなくなった
というか、そんな簡単なことではなかった、という話だと思う。結局今のファッションだってどこかが意図的に作った流行に合わせて商品が製造され、それを消費するだけになっている。古着であってもそれは自己というより所属を示す程度のものでしかなくなった
結局みんな他人から認められないような変な格好では歩けない、これもボトムアップの空気だろう。
そして、今度はものからことへと、価値の中心が移動していった、ほぼ日、がそのメイン。
感想
結局コトですら、記号的に消費され、そこに自己表現を見出すことなどできなくなってると思う
真の自立などあり得るのだろうか、依存に妥協しながらも自立しようともがいていくのが人生なのかな